混沌(カオス)と秩序(決断、区切り)と。
(イメージ画像)
振り返りからの着眼:ピティンパタンという断絶
南城市の古い地名や屋号を調べていると、時折、生理的な戦慄を覚えるような言葉に出会うことがある。
その事例のひとつ。「マンディグヮジャグヮジャ」という屋号もその一つだ。
「マンディ」は満ち溢れることを意味し、「グヮジャグヮジャ」という濁音の連続は、およそ秩序とは無縁の、過剰なまでの生命の蠢き(うごめき)を連想させる。
それは、南国の湿った風の中で、あらゆる欲望やエネルギーが複雑に絡み合い、収拾がつかなくなっている状態、いわば「豊かなカオス」そのものだ。
しかし、その屋号を持つ「新里前(シンザトメー)」の二代目のエピソードには、そのカオスを冷徹に断ち切る、もう一つのリズムが通奏低音(つうそうていおん)として流れている。
「ピティンパタン」
毎日、彼の行動に付随していたというこの隠語は、きわめてモダンで、どこか非情な響きを持っている。
想像する。
村の寄り合いや祭りの準備で、人々が「グヮジャグヮジャ」と際限のない議論や感情のぶつかり合いに埋没している光景を。
そこには共同体特有の、ぬるま湯のような心地よい混沌がある。だが、二代目はそのカオスの中に身を置きながらも、決して同化はしなかった。
彼が席を立ち、道具を置き、あるいは門を閉める。
その瞬間に響く「ピティン、パタン」という音。それは、肥大化したエネルギーに対する、鮮やかな「拒絶」であり「完結」だ。
現代の僕たちは、この「ピティンパタン」というリズムを失って久しいのではないか。
ネット上の情報の海も、終わりのない人間関係のしがらみも、すべては「グヮジャグヮジャ」としたまま、出口を見つけられずに漂流している。
決断すること、区切りをつけること、そして何より、自分自身の時間を他者のカオスから切り離すこと。
その潔さが、決定的に欠落している。
新里前の二代目は、誰よりも深くカオスを愛し、その中で「マンディ(豊穣)」を体現していた。
しかし同時に、彼は知っていたのだ。自分を自分たらしめるのは、カオスに飛び込む勇気ではなく、それを一瞬で終わらせる「ピティンパタン」という、孤独で強靭なリズムであることを。
その冷ややかな音の響きだけが、真の意味で、人を自由にする。
この「グヮジャグヮジャ」とした日常に、あなたならどんな「ピティンパタン」を打ち込むか?
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