現代社会への違和感と危機感
(イメージ画像)
振り返りからの着眼:残酷で美しい緑の一部となること
湿り気を帯びた沖縄の空気は、ときに重金属のような重さを持って肌にまとわりつく。
斎場御嶽(せーふぁうたき)へと続く道すがら、その緑の深さに圧倒された。
それは「癒やし」などという、都会の脆弱な人間が好む言葉とは無縁の、剥き出しの暴力に近い生命力だった。
今回のテーマは、「制御不能な生との対峙」についてである。
結論から言えば、高度にシステム化され、利便性によって「去勢」された現代社会において、私たちが失ったのは、泥にまみれ、制御不能な自然を秩序へと捻じ伏せようとする「傲慢で切実な手触り」である。
論理的な根拠は明快だ。
経済やテクノロジーが進化するということは、生存に関わるノイズを排除し、予測可能性を高めることを意味する。
しかし、ノイズの排除は、同時に「生の実感」をも削ぎ落としてしまう。
死の気配を消し去った場所には、生もまた、希薄な影としてしか存在できない。自然という巨大な混沌に対し、あえて秩序を刻もうとする人間のエゴイスティックな営みの中にこそ、皮肉にも生の核心が宿るのである。
具体的な事例を二つ挙げたい。
一つ目は、斎場御嶽の木陰の「守り人」たちの営みだ。放っておけば聖域さえをも飲み込もうとする亜熱帯の植物群を、日々、手作業で剪定し続けている。
それは自然への愛護などではない。圧倒的な「他者」である自然を、人間の祈りが届く範囲に繋ぎ止めておくための、一種の格闘だ。
生け垣を調律するその刃先の動きには、聖域を守るという使命感と、自然を御そうとする人間の根源的な傲慢さが、美しいまでの均衡で同居している。
二つ目は、都会の片隅で、計算不可能な「身体的苦痛」を伴う創作や労働に従事する人々だ。
例えば、熟練の料理人が重い鉄鍋を振り、火花と油にまみれながら一皿の秩序を完成させる瞬間。あるいは、アスリートが限界を超えた心拍数の中で、己の肉体という制御不能な自然を統制しようとする瞬間。
彼らの表情には、スマホの画面をスワイプしているときには決して現れない、凶暴なまでの輝きがある。
私たちは今、あまりにも清潔で、あまりにも静かな部屋に閉じ込められている。
だが、画面の中には答えはない。
今すぐ、ク一ラ一の効いた部屋を出て、コントロールできない何かに触れるべきだ。
土をいじり、木を削り、あるいは汗を流して肉体の反乱を鎮める。効率や正解を求めるのではなく、無秩序を秩序へと変えるための「私的な抵抗」を始めてみたい。
泥にまみれることを厭わないその手触りだけが、この残酷で美しい世界の一部であることを証明してくれるはずだ。
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