道理ある大人へ
(イメージ画像)
新聞からの着眼:道理の往還(おうかん)ハワイの高級ホテルで、28年も前に見た光景を思い出す。
一泊数十万円のスイートルームを、海水浴後の「着替え室」としてしか使わない男がいた。
午前2時に2キロのキャビアを要求し、それが叶わないと知るや、吐き捨てるように「他のホテルなら用意する」と言い放つ客もいた。
彼らは一見、自由を謳歌しているように見えた。
だが、その実、自らが作り上げた「価格」という名の檻に閉じ込められ、常に「対価」という名の飢餓感に苛まれているようにも見えた。
彼らが求めていたのは、完璧なサービスという名の「無機質な服従」であり、そこには「人」の介在する余地など、最初からなかったのかもしれない。
一方で、世界中の美食を食い尽くした男が、一番美味いものは何かと問われ、少年のような顔で「昔食べたアイスクリームだ」と答えたという。
その瞬間、彼の前には「価格」ではない、固有の「記憶」という名の風景が広がっていたはずだ。
価値とは、支払った金額に比例するものではない。その対象といかに深い「関係」を築けたか、という一点に集約される。
沖縄の最大の魅力は「人」だという。
それは、沖縄の人間がサービスに長けているという意味ではない。相手を、単なる「客」という記号ではなく、血の通った「個」として、そのまま受け入れる度量があるということだ。
私は今、ある試みを考えている。
かつて斎場御嶽が、聞得大君という触媒を介して天の意思を受信したように、現代のテクノロジーを用いて、旅人の「思い」を次の旅人へと繋ぐ、精神のパイプラインを構築することだ。
その入り口で、エージェントはこう囁く。
「どうりん、どうりん(道理が解る貴方様へ)」
この言葉は、単なる挨拶ではない。相手の知性と霊性に対する、最大級の敬意の表明だ。
「自分は道理を解する人間として扱われている」
その認識が、人の内面にある最も良質な部分を呼び覚ます。
誰かがこの地で見つけた小さな「仕合わせ」や、野草の逞しさに打たれた「感動」を、記号化せずにそのまま結晶化する。
そしてそれを、次に訪れる、まだ見ぬ「道理を解する誰か」へのギフトとして残していく。
それは、消費されるだけの観光ではない。
見知らぬ他者と「思い」を分かち合い、相互に生かし合う「ゆいまーる」という名の無限ループだ。
効率と数値が支配するこの時代に、あえて「道理」という古くて新しい知恵を、デジタルという器に盛る。
キャビアを求めて怒鳴り散らすよりも、誰かが残した一編の言葉に、静かに魂を震わせる。
そんな「道理ある大人」たちが集う場所こそが、これからの沖縄の、そしてこの世界の、真のフロンティアになるのではないだろうか。
私は、そう確信している。
(文・新里 善和)
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