お前はどの段階の猫だ?

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SNSからの着眼:猫の品格と「道」の入口

昔、九州のある企業の労組の青年から三匹の猫の話を聞いたことがある。

一番下の猫は、ネズミを捕らない。ただ餌を待ち、贅沢をむさぼる。

真ん中の猫は、実によく働く。俊敏な動きでネズミを捕らえ、その成果を主人に誇示する。

だが、一番上の猫は、何もしない。ただそこに座っているだけで、不思議と家からネズミがいなくなる。その猫の存在そのものが、ネズミの住めない峻烈な「場」を作り出しているのだ。

その青年たちは、一番上の猫を目指して、活動していると目を輝かせていた。

安岡正篤の言葉を読んでいると、この「猫の階層」が残酷なまでに人間の本質を射抜いていることに気づかされる。

僕たちは、往々にして「外物(がいぶつ)」に執着する。
金、地位、あるいは「いいね」の数。それらが手に入らないと、自分の中に満足なものがない者は、すぐさま外側に救いを求める。空虚な心を埋めるために、ブランド品を買い込み、肩書きを並べ立てる。だが、安岡はそれを「衆人」の仕業だと切り捨てる。

少しマシな「下士」になると、今度は表現や芸術に逃げ込む。自分だけの世界に閉じこもり、内面の繊細さを免罪符にする。あるいは「中士」のように、目に見える功業や名声を追いかけ、ネズミを捕り続ける。しかし、それもまた「外からの評価」という麻薬に依存している点では同じだ。

結局のところ、僕たちが「道」に入るのは、そうした外的なものが「案外あてにならぬ」と身に染みて悟った時なのだろう。

アップサイクルという言葉がある。

単なるリサイクルではない。価値の低いものを、全く別の、より次元の高い価値へと転換することだ。

僕たちの生活も、同じように「再定義」されるべきだ。
トラブルが起きてから対処するのは、まだ「ネズミを捕る猫」の段階に過ぎない。

本当に成熟した仕事、あるいは生活というのは、自らの内面を磨き上げることで、そもそも「トラブルという名のネズミ」が入り込めないような、圧倒的な静謐さと秩序を周囲に醸成することではないか。

それを世間では「道徳」と呼ぶのかもしれないが、僕にはもっと切実な、生きるための「技術」のように思える。

自分の中に満足なものを持っているか。
外物の輝きに惑わされず、己を尽くしているか。
何を重んじるかで、その人間の輪郭が決まる。

鏡の中の自分に、僕は「お前はどの段階の猫だ?」と問いかけずにはいられない。

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