ノイズという名の個性

(イメージ画像)
新聞からの着眼:AIという名の、あまりに静かな去勢

今日の新聞をめくっていて、奇妙な既視感(デジャブ)に襲われた。

就職活動をする大学生の8割が生成AIを使っているという記事だ。

エントリーシートの志望動機をAIに書かせ、面接の練習相手をさせる。学生たちは「効率的だ」と口を揃え、中には「AIに指摘されて初めて自分の視点の抜けに気づいた」と、殊勝なことを言う。

いささか奇妙ではないか。

自分の人生の、おそらくは最初の大きな岐路において、彼らは「自分の言葉」を放棄しているのだ。

AIが吐き出す文章は、なるほど、端正で、論理的で、非の打ち所がない。誤字脱字もなく、企業の好むキーワードが適切にちりばめられている。だが、そこには決定的な何かが欠落している。

「血」の匂いだ。

失敗したときのヒリヒリするような痛み、何かを成し遂げたときの震えるような歓喜、あるいは、どうしても許せなかったことへの静かな怒り。そういった、人間の内側から湧き出る、整合性のとれない、だが強烈なエネルギーが、AIの「最適化」というフィルターを通した瞬間に、きれいに濾過されてしまう。

残るのは、誰のものでもない、無味乾燥な「正解」だけだ。

記事の中で、キャリア支援の専門家が「AIの回答を鵜呑みにせず、自分のエピソードを」と警鐘を鳴らしているが、それはどこか虚しく響く。システム自体が、個性を去勢する方向へ動いているからだ。

想像してみよう。

AIによって最適化された志望動機を携えた学生が、AIによって最適化された採用基準を持つ企業に入社する。そこで待っているのは、AIによって最適化された業務と、AIによって最適化された人間関係だ。

そこには、予期せぬノイズも、不快な摩擦も、破滅的な失敗もない。完璧にコントロールされた、清潔で、退屈極まるディストピア(ユートピアの対概念)だ。

俺たちは、利便性と引き換えに、何かとても大切なものを手放そうとしている。それは「迷う」ということ、そして「傷つく」ということだ。

紙面の別の場所には、インドネシアからの留学生が沖縄の伝統芸能「エイサー」を研究し、修士号を取ったという記事があった。

彼女は、異国の文化の、言葉にならない熱量に触れようと、汗を流したはずだ。そこにはAIには模倣できない、身体性を伴った「納得」があっただろう。

また、別の記事では、緊急地震速報の音をデザインした男が、自然界の音には脳を活性化させる力があると語っていた。

都市のノイズをAIで消し去った跡に、人工的な静寂ではなく、あえて不規則な川のせせらぎや鳥の声を置く。それが人間を人間らしく保つための、最後の砦かもしれないと、彼は直感しているのだ。

AIを使うな、と言っているわけじゃない。そんな寝言を言うつもりはないし、僕らはAIをウェルビ一イング(心や体、社会的なつながりなどを含めて、全体として良好で満たされている状態)を創るパートナ一として位置づけている。

だが、AIが提示する「正解」に、微かな違和感を覚える感性だけは、手放してはいけない。その違和感こそが、まだ「システムの一部」ではなく、「人間」として機能している証拠だからだ。

エントリーシートの最後の一行くらいは、AIに修正させるな。

たとえ稚拙で、論理が破綻していても、お前の、お前だけの、血の通った言葉を叩きつけろ。

世界は、お前の想像以上に、そのノイズを求めている。

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