「ディープタイム」の体感
(イメージ画像)
SNSからの着眼:半眼で捉える、破壊と創造のディープタイム 沖縄・知念の春分は、残酷なほどに静かだった。
彼らは、裸足で大地を歩いた。宇宙138億年、地球46億年という、もはや脳の許容量を超えた「ディープタイム」を身体に刻み込むためだ。
アスファルトに慣れきった足裏が、直接土の湿り気や石の鋭利さを感知する。その瞬間、情報の洪水に溺れていた「個」としての自分は、あっけなく崩壊した。
参加者の中には、嗚咽を漏らす者もいた。それは感情の昂ぶりというより、あまりに巨大な「循環」の一部であることを突きつけられた、生命としての震えに近かったと思う。
宇宙の歴史とは、安定の継続ではない。それは、凄まじい「破壊」と「揺らぎ」の連鎖だ。巨大な衝突があり、絶滅があり、その無残な残骸の中から、新しい秩序が立ち上がってくる。
僕たちが日常で「失敗」や「迷い」と呼んでいる矮小な事象も、この時間軸に放り込めば、次の創造のための、ただの「素材」に過ぎないことがわかる。
そこで、禅の「半眼」という思考を重ねてみた。
片方の目で、加速し続ける冷徹な現実(外側)を見つめ、もう片方の目で、自分の中に静かに備わっている直感(内側)を観る。
どちらか一報に偏れば、人は容易に狂う。だが、この「半眼」のバランスを保つとき、僕たちは初めて、この世界を「アップサイクル」する資格を得るのだ。
目の前のトラブルを、排除すべき「悪」として切り捨てるのは簡単だ。だが、それは思考の停止に他ならない。
半眼でそれを見つめ、その破壊の熱を、新しい価値へと編み直す。それこそが、成熟した大人の「仕事」であり、生きるための「技術」ではないだろうか。
「地球を守る」などという傲慢な言葉は、もう必要ない。
僕たちは、地球という巨大な生命体の、痛覚であり、思考そのものだ。
知念の風の中で感じた、あの一瞬の「揺らぎ」。
それを日常という退屈な戦場に持ち帰り、どう機能させるか。
本当の「人生ゲーム」は、裸足から靴に履き替えた、その一歩目から始まる。
さて、次の目的地へ向かおう。
この不条理で、しかし圧倒的に美しい「循環」を、もう少し楽しむために。
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