美しい海の底に沈む、おぞましい現実

(イメージ画像)
SNSからの着眼:400年前の「呪い」の契約書、あるいはシステムという名の絶望

沖縄の海は青く、空は抜けるように明るい。

だが、その明るさの地下には、目を覆いたくなるような分厚い絶望の地層が横たわっている。

観光客は誰もそんなものは見ない。見ない方が快適だからだ。だが、現実というものは、見ようが見まいが、確実にそこにある。

1611年9月19日。一つの文書が書かれた。

「起請文」である。

1609年の薩摩による琉球侵略の後、薩摩へ連行され監禁された尚寧王と三司官が、強制的に提出させられた誓約書だ。

内容はシンプルで、絶望的だ。

「琉球は古来より島津氏の附庸であり、薩摩の家来となって永久に服従する」というものだ。

薩摩の連中は狡猾だった。

圧倒的な武力で制圧しておきながら、武力だけで支配しようとはしなかった。武力による単独支配は、大日本(徳川幕府)や他藩から「不当な侵略」として干渉を招く恐れがあった。

だから彼らには、「大義名分」が必要だったのだ。
「無理やり支配したのではない。琉球王が自ら進んで薩摩の家来になることを申し出たのだ」という、吐き気のするような自発的な形式がどうしても必要だった。

力で屈服させ、その上で「自分から望んで屈服しました」と神仏にサインさせる。これは支配を正当化し、永続化させるための究極のシステム構築だった。

藩内では深刻な対立にあり、それを鎮めるためにも機能した。

この完璧な絶望のシステムに対し、たった一人だけ「ノー」を突きつけた男がいた。

謝名利山。三司官の一人だ。

彼は署名を拒否し続けた。島津氏への屈従を神仏に誓うことは、琉球の歴史と魂を売り渡す行為に等しかったからだ。

結果として、彼は鹿児島で斬首された。

伝説によれば、処刑の直前、薩摩の番兵を抱えて釜茹での釜に飛び込んだともいう。彼の死は、政治的には無力だったのかもしれない。だが彼は、システムに飲み込まれることより、個人の尊厳を選んだのだ。

この「起請文」という名の不平等条約は、決してセピア色に色褪せた過去の遺物ではない。

沖縄における知性が指摘するように、これは琉球が国家としての独立した主権(王権)を失い、ヤマト(日本)が琉球を支配し続ける決定的な「原点」である。

考えてみてほしい。

400年前に作られた「理不尽な従属関係」というシステムは、今も稼働し続けているのだ。

現代の沖縄が抱える普天間などの基地問題。本土からの無関心と押し付け。理不尽極まりない沖縄の現実の根本的な原因は、すべてこの起請文にあると言っても過言ではない。

さらに、薩摩の過酷な搾取による財政のひっ迫は、結果的に宮古や八重山といった離島の人々に対する「人頭税」という過酷な二重支配の構造を生み出した。強者は弱者を搾取し、弱者はさらに弱い者を搾取する。

不快だが、それが歴史の事実だ。

システムは一度組み上がると、名前や形を変えても生き延びる。薩摩藩が消滅し、琉球王国が消滅しても、「従属」という関係性だけは残った。

歴史を学ぶということは、美しいロマンに浸ることではない。自分たちがどのような残酷なシステムの上に立たされているのかを、冷徹に直視することだ。

あの青い海の底には、今も「起請文」の呪縛が沈んでいる。

それに気づかないふりをして生きることもできる。だが、歴史に学ぶ真実を見極め、本当の「主権回復」の原点を知るためには、その呪縛の正体を知ることからしか始まらないのだ。

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