【琉球王学】対話の真髄

(イメージ画像)
「正解」という名の暴力から、自由になるために

今の私たちは、あまりに早く「正解」を求めすぎる。

SNSのタイムラインも、
テレビの討論番組も、
そして日常の会話でさえも、


どちらが正しいか、
どちらが効率的かという、

二元論のナイフで世界を切り刻んでいる。

しかし、その「正解」が、実は社会を分断する最大の原因だとしたらどうだろうか。

私たちが取り組んでいる「琉球王学」における対話は、その真逆を行く。

目指すのは、「正解を出さない対話」だ。

イギリスの詩人ジョン・キーツが提唱した「ネガティブ・ケイパビリティ(負の能力)」という概念がある。

どうにも答えの出ない、
割り切れない事態に直面したとき、
それを急いで意味づけせず、

不確かさの中に留まり続ける力のことだ。


琉球の歴史を紐解けば、そこには常に「割り切れなさ」があった。

大国に挟まれ、独自の文化を守りながら、なおかつ他者と共生していく。

そこには、単なるYES/NOでは片付けられない、深い知恵が沈殿している。

この対話において、私たちがマテリアル(素材)として扱うのは、三つの「ある」だ。

「居る」「存る」「在る」の三層構造
対話の場において、私たちはまず「居る」ことを体感する。

それは、評価や属性を脱ぎ捨て、ただ一人の生き物としてそこに身を置くことだ。

「敵か味方か」ではなく、ただ「あなたという生命がここに居る」という事実。

それが分断を溶かす最初の一歩になる。

次に、「存る(ある)」を感じる。

これは時間の軸だ。

私たちは、突如として現れたわけではない。

先祖が守り、繋いできた記憶が、私たちの細胞の中に「存って」いる。

対話を通じて、目に見えないが確かに存る背景を尊重し体感する。

そして最後は、「在る(ある)」だ。

ここにはもはや、正解も不正解もない。

ただ、そこにあるがままの真理や、浮かび上がった問いを、そのままの形でそこに置いておく。

体感することもなく、ただ​「在る(ある)」のだ。

分断を繋ぎ直す「接着剤」
「居る」「存る」「在る」。

この三つを感じることができたとき、対話はもはや情報の交換ではなく、存在の肯定へと変容する。

社会を繋ぎ直すのは、立派な正論ではない。

「正解が出ないこと」を共に耐え、それでもなお、互いの存在を「在る」と認め合う、その静かな時間の中にこそ、新しい未来へのマテリアルは隠されている。

私たちの、この「琉球王学」という窓を通じて、壊れかけた社会のピースを、もう一度、丁寧に、しかし力強く繋ぎ直していきたいと考えている。

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